仄聞したところによると、昭和十一年(1936年)頃に若い表具師の集まりがはじめとか…。
当時の日本は、国威高揚の機運が盛り上がり、日本画も気宇宏大な作品を多出し『日本画は国画』という気も満ちていました。東都・東京においても、表具店の若い二世・三世が技を競い合うため、上野の美術館を会場に、日本画の先生方に描いていただいた作品を用い表装展が開催されることが、珍しくなかった時代でした。
表具師の教養学歴も高く、日本画家ばかりでなく、様々な芸術・文化人との交流があったため、当然のことながら新しい考えを持った表具師もおりました。当時の作品の大半は絹本に描かれたもの、さらには伝統の京都とは異なる東京の気候風土、これらの問題を糊について様々な工夫を凝らすなどして補ってきた様です。
時代は流れ、軍の国政への関与が強くなり戦争に突入、そして敗戦、日本全土が焼け野原となりました。東京をはじめ大都市が、先ず食料、そして住宅という状態でした。さらに近隣の戦争による景気の良さもあり、建築に拍車がかかり建築ブーム、東京に高層ビルが立ち並ぶことになりました。
この頃になると表具師の仕事もいくつかの分野に分かれ専業化しはじめます。というのも、郊外の集合住宅化が進み、内装をはじめ床も仕事に入ってくるようになったのです。
一方、デパートは益々大型化し、そこの美術部は日本画に限らず、洋画・美術工芸と盛況を極めることになります。そうなると、もはや飾る場所は床の間だけでは収まりきらず、壁や棚も鑑賞の場として活用されるようになりました。
さらに集合住宅の建設が一段落すれば、近郊に高級住宅が建つようになり、日本画すらも掛軸から美しい額に納まるように変化を見せはじめます。
画壇は、日展・院展・デパートでは青龍社(注1)・新制作(注2)といったものに多数の観客を集め、泰西名画をはじめとし、ピカソ、マティス、ブラック、ダリ、カンディンスキーといった多くの刺激的な絵画を、美術部の企画で観ることができました。芸術文化に飢えていた共々には、美術館を三重、四重と並んでも、観ることが嬉しかった時でもありました。
しかし、それと同時に季節を失っていく時代でもありました。絵画ばかりでなく、生花の発表展が、自然界に存在しないオブジェと化し、日本独特な微明なやわらかな、自然からの季節の移ろいを示す行事がなくなっていくのでした。
以白会の先輩達も、都会に在って、戦争後の激変を体験しつつ、我が国の文化、文物がどうしたら残るかを考え続けていたのだと思います。建築物の変化にともない鑑賞の「場」が床から壁へと移っていく中、会員の柱ともいえる片岡市龍氏、吉澤氏は文章にして、美術品文化の残るべき姿は巻子の状態でしか残らないと結論づけました。また、小川泉雅堂は創作表具の実践者として具現化してみせるため、矛盾の無い掛軸の分割を考案しました。そして、壁に対応できる掛軸を創り出すため、新しい素材による新しい分割を個々に生みだし、研究していく団体として以白会を創作団体としました。
片岡氏は熊谷守一の作品であるネコの素描を用いて、表装とはシンプルで明るいものであることを示しました。吉澤氏は厚塗の日本画に対し大胆な色使いのもとフリーハンドで、小川氏は作品の形から計算された値をコンパスと三角定規を用いて、裂地を分割することで、これまでの染・織を用いた表装では表現できなかった、新しい裂地の表現を創りだしました。また、それと同時に糊・紙の研究を具体化し、実践もしてくれました。
現在、以白会の作品も絵画から書へと広がりつつありますし、裂地も染色、織物と様々、軸先も多岐に渡ります。以白会は、表具師の造形表具の発表の場であると共に、表具師のセンスを問う場でもあります。
※ 注1 青龍社:昭和期の日本画団体。1929年(昭和4年)結成。
※ 注2 新制作派協会:昭和期の美術団体。1936年(昭和11年)創設。洋画に始まり、彫刻部・建築部・日本画部など新設。後に日本画部は現在の創画会として独立。